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5.5 非競争的な労働市場における訓練投資編集

上に述べたように、多くの労働市場では非競争的な要素が重要になりそうだ。だがそうした非競争的な要素は、アメリカにおける近年の不平等拡大の原因に関する、需要-供給分析の枠組みからの洞察に対して、それほど多くの変更を求めることはないだろう。これに対して、労働市場における非競争的な要素の存在は、訓練への投資インセンティブを激烈に変える。

手始めに、まず図8を検討し、その賃金が図に見るようにw(\tau)で与えられていると想定しよう。ここでは相変わらず、あらゆる技能が一般性を持つと想定する。関数w(\tau)は、\tauの訓練を経た労働者に企業が支払わなくてはならない賃金を決める。重要な点は、賃金が労働者の生産性より低いということだ。だから図に描かれた状況は、完全競争的な労働市場とは一致していない。むしろ雇用関係において、雇い主のほうに蓄積されるレントが存在する(つまりある程度の買い手独占 (monopsoni) 力が存在する)。これが企業出資の訓練にとってなぜ重要かを理解するには、以下を考えればいい:もし企業が労働者の生産性より低い賃金を支払えないのであれば、訓練のための初期費用を絶対に回収できないことになってしまう (こうしたレントが発生する詳細なメカニズムの議論としては、Acemoglu and Pischke 1999a を参照)。

 第二のもっと重要な特徴は、賃金関数の訓練水準に対する増加率が、生産性の増加率よりも傾きが低いということだ。だから生産性と賃金とのギャップ\Delta(\tau)は、技能が高くなるほど大きくなる。 Acemoglu and Pischke (1999a) はこの種の賃金構造を圧縮賃金構造 (compressed wage structure) と呼んでいる。というのも、労働者にとって技能のリターンは、競争的な労働市場でのリターンより低いからだ。図における二つの曲線のギャップ\Delta(\tau)は、その労働者を雇ったことで企業が得る利益(訓練費用があればそれも含む)である。その売り上げはf(\tau)であり、その費用は賃金w(\tau)に等しい。したがって、図7のような賃金関数の場合、企業は低技能労働者よりは高技能労働者を好む。これは完全競争の労働市場での状況とは対照的だ。完全競争下では、高技能労働者だろうと低技能労働者だろうと、得られる利益は等しい。つまりあらゆる労働者で\Delta(\tau)=0 となる。だから企業は、その従業員の技能水準はどうでもいいと考える。図8に示した非競争労働市場では、企業は自分の利益を増やすために、従業員の技能に投資したがる。

 これをもっとはっきり見るためには、仮に労働者たち自身は訓練にまったく投資できないとしよう。すると図8を検討すれば、その企業はc'(\tau)=f'(\tau ^f) - w'(\tau ^f)で与えられる\tau >0まで訓練を提供し、そのお金を出すことがわかる。言い換えると、企業は第二期の利益の限界変化を、訓練費用の限界変化と等しくしようとするわけだ。

 労働市場の不完全性と買い手独占力により、労働者たちは技能が一般的であっても、その限界生産の全額を支払ってもらえないということを強調しておくのは重要なことだ。つまり一般技能は、それが(部分的に)専門技能であるかのような報酬をもたらすということになる。つまり労働市場の不完全性のため、一般技能を実質的に専門技能に変えてしまうことになる。

 また、企業出資の訓練のためにも賃金圧縮が必要だと言うことにも注目。仮に賃金関数が、図7の破線で示したw(\tau)=f(\tau)-\Deltaだったとしよう。この場合、完全競争労働市場とはちがって、労働者は自分の生産性より低い賃金しかもらえず、レントや買い手独占力が発生する。だが生産性と賃金のギャップは労働者の技能水準とは無関係なので、企業は労働者の技能を高めることにまったく関心をもたず、したがって企業出資の訓練は起こらない。

 訓練投資の議論で、なぜ競争的な労働市場と非競争的な労働市場のモデルを対比させたいのか? まず、企業が従業員の一般技能研修に一切投資すべきでないという予測を疑問視したいということに加えて、不完全な労働市場における訓練モデルは、ベッカーのモデルとはまったくちがった予測をもたらすからである。ベッカーのモデルでは、労働者は一般訓練への投資リターンの残余分を得る存在となる。したがって、一般訓練への投資を形成する力は、教育の意志決定に影響する力と非常に似たものとなるはずだ。特に、訓練を受けた労働者の賃金があがるという形で、訓練へのリターンが大きくなるのであれば、それはもっと訓練を増やそうという力になるはずだ。だが不完全な労働市場をもつモデルだと、最初はパラドックス的に思えるかもしれないが、まったくちがった予測が導かれる。企業がよくやるように一般訓練に投資を行う場合、その訓練に対する賃金リターン(つまり将来の生産で見た、ある訓練の生産性)が小さいほど、企業は訓練に投資するインセンティブが高まる。言い換えると、訓練を受けた労働者があまり賃上げされなければ、賃金はもっと圧縮され、結果として企業は訓練に投資するインセンティブが高まるということだ。

 この競争的な労働市場と非競争的な労働市場のモデルの対比は、どうやって不平等を減らすかという議論において重要だ。すでに指摘したとおり、稼ぎの不平等を減らす直接的な方法は、賃金圧縮をもたらす政策を法制化することだ(たとえば最低賃金など)。多くの経済学者は、こうした政策が配分に悪影響を与えるのを恐れており、ベッカーの訓練理論もまた、こうした政策が人的資本へのそれ以上の投資の足を引っ張ると示唆している。したがってそうした政策の通信簿はかなり悪いものに見えてしまう。だが非競争的な労働市場がある場合、こうした政策は実はかえって訓練への投資を奨励するものとなり、したがって一般に思われているよりもずっと費用の低いものとなるかもしれない。

 賃金圧縮と訓練との関係について何か証拠はあるだろうか? はっきりした意見の一致はない。理由の一部は、賃金圧縮をどう計ればいいかわからないからだ。賃金圧縮の概念は、賃金と限界生産との差を指している。労働者の限界生産性は観測できないので、賃金圧縮も観測できない。したがって、この問題を調べるためには、賃金圧縮の代替指標に頼るしかない。この種の証拠として、三種類を採り上げよう。まず、最低賃金は直接的に賃金構造を圧縮するので、訓練と最低賃金との相関を見ればいい。第二に、上で指摘したように、労働組合はしばしば賃金構造を圧縮させるので、労働組合が訓練研修投資にどう影響するかを見ることができる。最後に、賃金圧縮の程度は、労働市場制度のちがいのために国ごとにちがうと一般に認識されている。だから技能や訓練のリターンの関係を研究してみよう。

 アメリカで最低賃金が訓練に与える影響を調べる文献の一部は、最低賃金法がミクロデータで観察される賃金成長を鈍化させるかに注目している。この種の証拠は、最低賃金が訓練投資に与える影響を理解するのに有益かもしれない。訓練投資は生産性を引き上げ、したがって労働者のその後のキャリアにおける賃金を引き上げるからだ。年齢-稼得曲線の傾きが急になれば、訓練への投資が増えたものと解釈できる。 Leighton and Mincer (1981) も Hashimoto (1982) も、実際にそうなっている(訳注:途中にいろいろはさまっているのでわかりにくいが、「そうなっている」というのは段落てっぺんの「賃金成長が鈍化している」ということ)ことを発見し、最低賃金法は訓練を減らすと結論づけている。だが、この賃金成長についての証拠は、訓練の実施が減るということを必ずしも意味しない。最低賃金は賃金分布の低いしっぽを切り落とし、いちばん低いところに山(スパイク)を作り出すのが普通なので、実際には訓練にまったく影響がなくても、年齢-稼得曲線の傾きを減らすように見えてしまうからだ。実は、労働市場で非競争的な要素が存在すれば、最低賃金が実際には訓練を増やす場合ですら、まちがいなく年齢-稼得曲線の傾きを減らしてしまうのだ。たとえば Grossberg and Sicilian (1997) は、最低賃金は訓練にまったく影響を与えないことを発見したが、それでも最低賃金労働者の賃金成長は低いという。さらにCard and Krueger (1995) は、1988年の最低賃金引き上げ以前と以後で、クロスセクションの賃金プロフィールを、いくつもの対照州と比較した。かれらもまた、最低賃金引き上げ後にはカリフォルニアの賃金プロフィールが平たくなっていることを発見した。だが、カリフォルニアのプロフィールが全体として上にシフトし、以前の年齢-賃金プロフィールとは交差しないことも指摘している。これは競争理論とは一致せず、非競争理論の予測と見事に一致する。

 賃金プロフィールの変化を解釈するのはむずかしいので、最低賃金が訓練に与える直接的な影響を見たほうが説得力がある。 Leighton and Mincer (1981) は、 Panel Study of Income Dynamic (PSID) と National Longitudinal Surveyから、訓練受給について労働者が報告したデータを利用している。かれらによれば、最低賃金規制がもっと厳しい州にいる労働者たちは、かなり低い訓練しか受けないことを発見している。だが州ごとの比較は、他の州ごとの影響により不明確になっているかもしれない。たとえば、産業構成や職業構成は州ごとにまったく異なっており、産業や職業ごとに必要とされる技能もちがってくる。これを考えると、州を横並びで比べると解釈が難しそうだ。Schiller (1994) も、National Longitudinal Survey of Youth (NLSY) の新しいデータを使って、最低賃金労働者の訓練回数と、高賃金を得る労働者の訓練回数とを比べて、同じような結論を出している。この研究からの証拠は、もっと解釈がむずかしい。というのも、高賃金につながる労働者特性は、それ自体がもっと多くの訓練と結びついているのが普通だからだ。Grossberg and Sicilian (1997) は Employment Opportunities Pilot Pro ject (EOPP) データを使い、最低賃金労働者を、それよりちょっと低めの労働者やちょっと高めの労働者と比べてみて、労働者の異質性の問題を多少緩和している。この研究では訓練について、男性最低賃金労働者の場合には有意でない負の影響があり、女性の場合には有意でないプラスの影響があった。

 こうした問題の一部はNeumark and Wascher (1998) では克服されている。かれらはCurrent Population Survey (CPS) 補遺を使って、同じ州の中で最低賃金の影響を比べている。1991年の若い労働者と、(最低賃金にあまり影響されそうにない)高齢労働者や1983年の若い労働者と比べたのだ。こうした比較は、州ごとの長期的な訓練水準の差は、若い労働者も高齢労働者も長期にわたり同じだと想定している。これはかなり厳しい仮定ではある。かれらは最低賃金が訓練に対してマイナスの影響を与えると発見しているが、その影響は大きすぎるように思える。これはすべての若い労働者が最低賃金に影響されるわけではないことを考えればなおさらである。これは、影響が変わらないという想定が疑わしいことを示唆している。

 Acemoglu and Pischke (2000) は、1987-1992年のNLSYを使って、最低賃金の上昇が労働者訓練にどう影響するか分析した。この期間にはあちこちの州で最低賃金引き上げが行われたし、1990年と1991年には連邦最低賃金が二回引き上げられている。この連邦最低賃金の引き上げは、高賃金州と低賃金州とでまったくちがったインパクトをもたらした (Card (1992))。したがって、この分析は均質な労働者グループに対し、州ごとの最低賃金のちがいがどう影響するかを見ている。 Acemoglu and Pischke は、最低賃金に応じて訓練が減っているという証拠をまったく見つけられなかった。それどころか、その推計のほとんどは、最低賃金が上がると訓練の実施はちょっと増え気味だと示している。ただしこうした影響はおおむね統計的に有意ではない。最低賃金が訓練投資に与える影響が、ゼロかわずかにプラスというのは、人的資本の標準理論とは一致せず、非競争理論が予測する通りのものとなっている。

 労働組合が訓練に与える影響に関する証拠ははっきりしない。多くの研究は、組合が訓練に与える影響を直接見ようとしている。 Duncan and Stafford (1980) は PSID を使い、Lillard and Tan (1992) は CPSを使い、Barron, Fuess, and Loewenstein (1987) は EOPPを使って、組合の状態が訓練にマイナスの影響を与えると発見している。一方で Barron, Berger, and Black (1997)はEOPPデータを使うと組合の影響は有意でなく、SBAデータを使うと正式な訓練にプラスの影響があるとしている。 Lynch (1992) もまた、NLSY (National Longitudinal Study of Youth)で正式な訓練にプラスの影響があると発見している。イギリスの場合、 Booth (1991) は組合所属労働者には訓練が多いと結論し、 Green (1993) は中小企業では組合所属労働者の研修は増えるが大企業だと増えないと発見している。全体として、これらの証拠は競争理論にも非競争理論にも強い支持を与えるものではない。

 また、賃金構造のちがった国々で、技能や訓練へのリターンを比べてみるのも有益だ。1980年代半ば、賃金パーセンタイルの19番目と10番目の対数差は、アメリカでは1.73、イギリスでは1.11だが、ドイツでは0.83、スウェーデンでは0.67、フランスでは1.22、日本では1.01だった (OECD (1993))。この賃金構造のちがいから、訓練へのリターンも、ドイツやフランス、スウェーデン、日本では、英米に比べて圧縮されているだろうと思われる。非競争型理論の予測通り、正式に研修訓練を提供する企業の数は、アメリカよりも日欧のほうが高いようだ。 OECD (1994, Table 4.7) によれば、フランスでは若い労働者の 23.6 パーセント、ドイツでは 71.5 パーセント、日本では新規採用者の67.1 パーセントが正式な研修訓練をうける。それに比べると、アメリカでは労働市場経験の最初の7年で、少しでも正式な訓練研修を受ける労働者はたった10.2パーセントだ。だが、訓練水準を国ごとに比べるのは難しい。データの収集方法がちがっており、計測された訓練水準も簡単には比較できないからだ。各国での訓練水準よりも重要らしいのは、ヨーロッパの企業のほうが、アメリカの企業よりも一般訓練の費用を負担しがちなようだという観察だ。ドイツでは、職業技能は見習いによって学ばれることが多く、すでに指摘した通り、大企業はこの種の訓練についてかなりの純費用をかけている。アメリカでは、それに対応するような技能はコミュニティ大学や専門学校(職業訓練校)で学ばれることが多く、その費用は研修を受ける人々が自分で負担する。このパターンは非競争理論の予測と一致している。


Acemoglu fig8

Figure 8


『人的資本政策と所得分配』:section5.6

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