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『人的資本政策と所得分配』:section5.3

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5.3 教育決定における市場の失敗編集

このレポートが主にフォーカスしているのは、人的資本政策でどのようにして不平等を減らせるかということだが、そのような議論は教育への過少投資が存在するかどうかということと切り離すことができない。たとえば、仮想上の話だが、政府の教育へのサポートのおかげで、すべての個人が社会的に最適な量以上の教育をすでに受けているとしよう。そのケースでは、さらなる人的資本政策はさらなる教育を促すだろうが、はじめの段階で教育への過剰投資が存在するので、いかなる教育の増進にも、ただ金銭的なコストだけでなく、資源配分を歪めるという、高いコストがかかる。対照的に、教育に過少投資状態である社会では、教育を促す人的資本政策は、2倍の効果をもつだろう;すなはち、不平等を減らし、資源配分を改善する。それらの考察は、教育において市場の失敗があるかどうか、過少投資もしくは過剰投資に陥りやすいのかどうか、について慎重な議論を喚起する。

 教育における市場の失敗は多くの理由がある:

1. 先に議論したように、信用市場の問題が、個々人が適切な量の教育を選択するのを阻害するかもしれない。これは、一般に教育への過少投資に結びつく。

2. しばしば、教育の決定は個人のみだけでなく、家族によっても行われる。たとえば、家族は大抵スクーリングの費用を分担する。しかしながら、親は完全に利他主義ではないかもしれないし、十分に我が子のケアをするとは限らない。そのケースでは、親の子に対する教育投資は過少になる傾向があるだろう。

3. 人的資本には、ある労働者の生産性が経済における他の労働者の人的資本を増加させるという意味で外部性がありえる。これが当てはまる明白なのは、“科学者“のケースだ。高度な人的資本である科学者は、新しい発見をする可能性が高いし、それらの発見をもとに他の科学者が事を進め、新しい発見をする。もっと極端でない形では、アイデアを交換することによる似たようなタイプの外部性が多くの職業で起こりうる。さらに、Acemoglu(1996)で、私は金銭的な人的資本の外部性が、労働市場が不完全競争的であるときあらわれうると示した:多くの技能労働者が労働市場にいるとき、それらの技能労働者と共に生産するのを見越して企業は自らの物的資本にさらに投資する。その結果、すべての労働者がその拡大した物的資本投資の恩恵をうける。個人は自身の個人的なリターンのみに注意をはらうので、人的資本の外部性は教育への過少投資の存在を暗に意味している。

4. コストの面でも外部性が存在しうる。教育にかけるコストは友達や近所の人の態度によっても決定されるという仲間集団効果の議論を思い出してほしい。教育に投資する個人は、教育に対してポジティブな態度をもつ傾向があるだろう。だから、個人は教育に投資することによって、自身のリターンを高めるのみでなく、周囲の人々が教育にかけるコストにも影響をあたえることになる。くりかえすが、個々人はこのタイプの外部性を考慮せず、教育へは過少投資してしまうだろう。

5. 最後にあげる市場の失敗は、能力に関する不完全情報によって生じる。パート4で議論したように、そのような情報の不完全性があるとき、教育はシグナルとして働くかもしれない。しかしながら、教育がシグナルとして働くとき、教育投資された労働者の賃金を増加させるだけでなく、教育を受けていない労働者の賃金を減らす。(これは、教育をうけていない労働者が低い能力であるとみなされることによる)。このケースでは、教育への過剰投資を想定してよいだろう。

 これらの論点をさらに議論する前に、これらの市場の失敗は政府の介入がないケースを取り上げていることを記録しておくのが有益だろう。明らかにすべての国の政府が、教育に深く介入し、教育を提供したり補助金を出したりしている。だから、政府介入がなければ教育への投資が不足していたと思われるにもかかわらず、政府の介入のために投資が最適な量を上回るということが起こりえる。この“ただし書き“は、教育における市場の失敗を議論する上でよくおぼえておくべきである。

 これらすべての論点を考慮すると、教育へは過少投資、過剰投資のどちらにおちいりやすいだろうか? これは答えるのにとても難しい問題で、一つの研究でこれらの側面すべてを考慮に入れたものはない。そういうわけで、私の議論では、独立して2つの側面に焦点を当てたい; 「信用市場の問題はどれだけ重要か?」 と「人的資本の外部性とシグナリング効果はどれだけ重要か?」だ。まず、前者の議論からはじめて、後者の、人的資本の外部性とシグナリング効果の共通した重要性の評価にうつりたい。

 信用市場の問題が教育決定に影響し、過少投資の原因であるというのは妥当だろうが、相対的に発展した経済ではその重要性はおそらく限られている。ほとんどのOECD経済では、個人はローンにアクセスができるし、教育投資の公的な融資もすでに存在する。それらのローンや補助金が存在するにもかからず、信用市場の問題は重要なのだろうか?

 この問題を直接調べる方法はある。信用市場に問題がないときに関して標準理論の予測は非常にはっきりしている。すなわち、教育を受けようとしている個人やその家族の所得は教育決定になんの役割も果たさない。先に指摘したように、教育は純粋に投資決定である。そこで、個人は正しい量の教育を受けるはずで、また消費を平準化するのに信用市場を使うはずである。これはもちろん、すべての個人が同じレベルの教育を選択するはずだということを意味しない。能力の違いもあるだろうし、その他の違いもあるだろうから、それぞれ個々人は異なったレベルでスクーリングに投資するはずだ。たとえば、よく教育を受けた家族の子供は、家族の支援やその他の点で、おそらく教育に投資するのは容易いとおもうだろうし、信用市場に問題がなくても高いレベルの投資をするだろう。だから、家族の資源と収入が教育決定に影響するかどうかをしらべるのに、そのような違いを考慮に入れるのは重要だ。

 家族資源が教育成果に与える影響を調べている研究はたくさんあるにもかかわらず、所得が本当に影響するかどうかはいまだ熱く討論されている議題である。この分野での初期の研究は Haveman and Wolfe (1995) によってサーベイされた。ほとんどの研究は、単純な最小自乗法の方程式でスクーリングの成果を家族の所得で説明しているだけである。しかし、単純な最小二乗法による回帰では、家族の所得は“教育生産関数”(Lang and Ruund,1986) に影響をあたえる家族の性質を代理しているだけかもしれない。実のところ、多くの研究が、親の教育を説明変数に加えたり、前に通っていた学校の種類やテストの得点をコントロール変数として追加したりすると、家族の所得が子供の教育に与える影響は相当程度減ることを明らかにしている。(e.g. Cameron and Heckman, 1999, Ellwood and Kane, 1999, or Cameron and Taber, 2000). それにもかかわらず。そのような教育の所得弾力性の推定値には深刻な下方バイアスがある恐れがある。第一に、相当な計測誤差があり、一時的な所得変動がある一時点で計測される。これら両方の要因が、所得の教育への影響を小さくする、換言すれば、家族の所得が子供の教育に与える影響の推定値に下方バイアスをつくりだす。たとえば、親の教育や選ばれた中等学校の種類など恒常所得と正の相関を持つ他の変数がコントロール変数に含まれている場合、この減少バイアスは悪化する。直感的には、これらの他の変数は家族の所得と正の相関を持っているので家族の所得の真の影響を奪い取ってしまうし、それに家族所得は完璧には計測できない。結果的に、所得効果の推定値は相当控えめに述べられている恐れがある。第二に、テストスコアと、以前のスクーリングの経験は内生的に決まる傾向があるし、家族の所得に影響されるだろう。だからそれらを含めるとバイアスがかかった推定値に導かれてしまう恐れがある。

 他の戦略は、親の所得の外生的な変化を利用することだ。負の所得税実験はスクーリングに与える所得の影響を調べる唯一の実験的研究だが、所得の影響と、若者の労働決定に影響する限界税率を、混同してしまっている。(see e.g. Venti, 1984). いくらかの最近の研究では、子供のスクーリング成果を予言する観測されていない要素にも所得が相関している可能性を取り扱うために他の試みをしている。Duncan et al. (1998) は、兄弟の違いを利用して、他の家族要素を同じにして、家族の所得の変化について議論している。Shea (2000)は、産業別と組合別の賃金の違いと解雇による家族所得の変化を利用しおり、それらが“運”を代理するものとして議論している。彼は、親の資源が教育に与える影響はないとしているが、その推計は極めて不正確だ。Sheaが採用した二つの操作変数は、親の教育に対する態度と相関を持つので、完全な説得力があるものではない。多分、もっと興味深いのは、家族の資源が子供の健康に与える影響を分析するために南アフリカにおける老齢年金の拡大を利用した Duflo (2000) である。おそらく子の健康は投資の一種に相当すると考えられるだろうから、これは教育のように、完全な貸付市場が存在していたら家族の資源に影響されないはずだ。Dufloは健康への(家族)資源の明確な影響を見出したが、南アフリカとOECD経済の発達度合いの違いを考慮に入れると、それら結果がOECD経済やニュージーランドに一般化できるかどうかは明確ではない。Mayer (1997)もまた、様々な方法を用いて、教育への家族所得の影響を見出した。しかしながら、彼女[Mayer]は、所得の影響は非常に小さく、所得以外の家族の特質が子供の教育を形作るのにはるかに重要でありそうだと強調してもいる。

最後に、Acemoglu and Pischke (2001) は過去30年以上にわたって生じたアメリカにおける家族所得の分布の変化を、大学教育への親の資源の影響を推定するために利用した。この戦略は、所得分布の底辺にある家族は1970年代より1990年代のほうが貧乏になり、一方、上位4分の1の家族にとってその逆が真である事実を利用している。このアプローチは、(観測された、もしくは観測されなかった)他の教育選択に影響する要素と相関しそうにない、アメリカにおける所得分布の変化によって引き起こされた家族所得の変化を利用しているので魅力的である。彼らの推計は家族所得が大学入学に大きな影響を与えることを示唆している。たとえば、彼らは、家族所得の10%増加は4年生大学へ行く確率の 1.4%増加を伴うことを発見した。

 全体としては、家族所得が教育に影響するかどうかと、それゆえ信用市場の問題が重要かどうか、の証拠は入り混じっている[相反するものを含んでいる]。私自身の解釈は貸付市場の不完全性は重大な影響をもつと示唆している証拠はあるが、教育補助金の現行の水準からして、その証拠からさらなる補助金が必要であると言えるかは不明確だというものだ。もっと賢明な政策は、高等教育のための現行の貸付プログラムを拡大することだ。もし貸付市場の問題が重要でないとしたら、このような貸付プログラムの拡大は逆効果をもたないだろうし、貸付市場の問題が重要であったとしたら、このようなプログラムは非常に有用でありうる。このレポートの次のパートでこのトピックに戻る。

 人的資本政策の外部性とシグナリングについてはどうだろうか?私はこれらの2つのトピックを結合させる。なぜなら両者を総合した含意を評価するのに同じ種類の証拠が有用だからだ。人的資本に顕著な外部性が存在するとき、人的資本に対する社会的リターンは私的リターンを上回る。もっと特定して、社会的リターンとは、例えば全ての被雇用者の教育を受けた期間が一年増加するといった、全ての労働者の人的資本を合計したもののある量の増加が、どれだけ社会に便益をもたらしたかであると定義しよう。これに対して、私的リターンとは、ある個人が教育を受けたことによって本人がどれだけ利益を受けたかである。社会的リターンと私的リターンが違うのには多くの理由がある。たとえば、資本のような他の生産要素が供給不足ならば、これらのリターンは異なりうる。われわれの目的にとって、さらに重要で興味深いのは、それらは人的資本の外部性やシグナリングが重要なときにも異なるであろうことである。

 人的資本の外部性が重要なとき、その経済にいる他の人が人的資本を増加させた結果として個人はさらに生産的になる。これはすぐに社会的リターンが私的リターンを上回ることを意味しているだろう。一方で、スクーリングがシグナリングの価値を持っているなら、教育への社会的リターンは私的リターンより少なくなる。スクーリングが人的資本を増加させず、シグナルとしてしか働かないという極端な場合には、全ての労働者が一年スクーリングを増加させても総所得は変わらず、社会的リターンはゼロである。

 この議論は、社会的リターンと私的リターンを比較することによって人的資本の外部性とシグナリングのどちらが重要かを知りうると示唆している。もし社会的リターンが私的リターンを上回るならば、人的資本の外部性が重要だろうし、私的リターンが社会的リターンを上回るならばシグナリングが重要になのだろう。どうやったら社会的リターンを測定できるだろうか?

私的リターンと社会的リターンの差を調べる一つの方法は、ある労働市場でそこに参加している労働者全ての人的資本の増加が大幅に増加したとき、その労働市場で所得や賃金に何が起こるかをみることである。もっと直接的には、ある労働市場における平均的なスクーリング(人的資本)の変化が参加者の賃金に与える影響をみればよい。特に、労働文献は以下の形の方程式を推定してきたことを思い出そう:


ln w_{i} = \gamma \cdot s_{i} + X^{'}_{i} \cdot \beta


ln w_{i}は個人 (i=individual) の対数所得・賃金, 構文解析失敗 (不明な関数\math): S_{i}<\math> はスクーリングの年数、<math>X_{i}

は他のコントロール変数のセット(経験、性別、地理統計そして人口統計のコントロール変数を含む)。\gamma の典型的な推定値は 0.06 から 0.1 の間で、一年間教育期間が増加すると、個人の収入が6から10%増加することを示している。(例:Card, 1999, Angrist and Krueger, 1991).

社会的リターンと私的リターンの差をさぐるため、以下のフォームのように、この回帰式の拡張されたバージョンを用いることができる。


ln w_{i} = \gamma \cdot s_{i} + \theta \cdot \bar{S}_{i} + X^{'}_{i} \cdot \beta


\bar{S}_{i} は個人iが働いている労働市場における平均的なスクーリングを表している。この回帰式では、\theta は社会的リターンと私的リターンの差(また Acemoglu and Angrist, 2000, が外部リターンと呼ぶもの)。全ての個人がある領域で一年教育期間を増加させたとき、賃金は (\gamma + \theta) の要素によって増加する。だから、\theta < 0 のとき、社会的リターンは私的リターンより小さく、逆に、\theta > 0 のとき、社会的リターンは私的リターンより大きい。

 Rauch (1993) はこの形の回帰式の推定の最初の試みである。Rauchの結果は、約3~5%の外部性が存在していると示唆している(相当大きい推計もしているのだが)。 Rauchの推計は都市ごとの平均的なスクーリングの違いを利用して行われている。しかし、より多いスクーリングがより高い所得の原因であるのではなく、より高い所得がより多いスクーリングの原因になっているのかも知れない。また、平均的なスクーリングの平均値が大きな都市で他の様々な理由によってより高い賃金を実現してのかもしれない。

 この問題を解決するためには、与えられた労働市場における平均的な人的資本での変化の外生的な原因を特定する必要がある。Acemoglu and Angrist (2000)は、それをアメリカ合衆国の州の間にある義務教育法の違いを利用して成し遂げた。具体的には、各州における1920年と1960年の義務教育法と児童労働法はそれぞれの州の平均的な教育に大きな影響を及ぼしていたが、彼らはこれらの違いを利用した。彼らは、\theta は正だが、非常に小さく、典型的には 0.01 であるが、統計的にはそれは有意ではないことを発見した。この証拠が示唆しているのは、人的資本の外部性の程度は限られており、社会的リターンは私的リターンを有意に上回るわけではないということである。\theta がほぼ常に正であるという事実は、顕著なシグナリング効果の存在も排除している。


『人的資本政策と所得分配』:section5.4

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